第2回研究推進ボード主催研究会報告
”The Imjin War (Bunroku-Keichou no eki/ Renchen Weiguo Zhanzheng)
as East Asian‘lieu de memoire’after 1945”

(「1945年後東アジアにおける「記憶の場」としての文禄・慶長の役(壬辰倭乱、壬辰衛国戦争)」)
発 表 者:Hinrich Homann (Ph.D. Candidate, Trier University, Germany)
コメンテーター: Dr. Yonson Ahn (East Asia Studies Institute, University of Leipzig)
司会:池 直美(北海道大学大学院法学研究科 博士課程3年)

 

・イントロダクション
 まず、報告者は、イントロダクションとして戦争(The Imjin War)の名称と研究内容の概要についてまとめた。戦争の名称については、韓日中それぞれの中で時代によって変遷する一定の意図を持った使用がなされてきたことが指摘される。それは、韓国においては日本の攻撃性が強調されたこと、日本においては「征討」という表現から文禄慶長の役という中立的な表現への変遷があったこと、中国では後に抗日の視点が強調されるようになったことなどの特徴からの考察である。それらの指摘の上で、今報告では紛争当事者に当たらない英語圏で使われている'Imjin War'という名称を使うとした。
 その後、研究の概要が示される。まず歴史の概観として、初期における韓国側の油断、その後の中国への援助要請と連合軍並びに「義兵」による盛り返し、そして秀吉の死による完全撤兵という流れが説明された。その上で、この戦争は、その被害の甚大さもあり、(多くの戦争が忘れ去られる中)400年たっても忘れ去られることがなく、東アジアの「記憶の場」として重要であることを強調した。 そして、そこにピエール・ノラの概念を当てはめることで、各国における歴史の語られ方を研究し、さらにはそれぞれの視点をはっきりさせることで相互理解の基礎とできるのではないかという期待が述べられた。アプローチの方法としては、教科書、博物館、映画、テレビドラマ等のパブリックメモリーを利用し、特に韓日中の三カ国で英雄としての語られ方がほぼ受け入れられている李舜臣に注目したいとした。最後に、東アジアにおける歴史は、高句麗問題に見られるように現在でも各国の利益のために動員される特徴を指摘し、報告はメインパートに入る。

      


・メインパート
 メインパートは、The Imjin Warをめぐる語りの歴史を遡ることからはじめられた。19世紀までについては、朝鮮が自らの権威に関わる王室・両班をはじめ、民間の様々な主体が戦争を文学作品の中で語ってきたのに対し、日本や中国においてはあまり資料がないことが指摘される。また、李舜臣の評価の変化に見られるように、前近代の語りの中に既に政治的、私的思惑が働いていることに注意が促された。ちなみに、最近まで中国においてこの戦争が語られなかったことについて、戦後すぐの後金の驚異、財政危機などの苦境に見合わない戦禍、戦死や政争による英雄の不成立が三つの理由として挙げられた。
 次に、この流れが19世紀末の国際環境の変化の中で変わってくると指摘される。朝鮮で日本の朝鮮進出をピークとする政治危機に合わせて、英雄としての李舜臣の評価が飛び抜けて高くなる一方、The Imjin Warは、日本では華々しい軍事的偉業として研究されるようになり、中国では30年代40年代からの抗日戦争に歩調を合わせて中国が日本に勝利した望ましい戦争として語られはじめられたと変化の内容が説明される。
 そして、戦後、韓国では日本統治からの解放の中でナショナリズムの高揚や非民主主義的体制の中でThe Imjin Warが利用されたのに対し、日本では民主化の結果、長い時間をかけながらも戦前のような語られ方はしなくなったことが指摘された。また、中国についても搶ャ平以降、新しいナショナリズムの中で従来行われてきた抗日の側面を強調するだけでなく、中国外交の道徳性が主張されるようになったという指摘もなされた。

      


 時系列によるまとめに続いて、教育、博物館、映画・ドラマの中での語られ方がまとめられた。
 まず、教育においての語られ方であるが、冒頭、教科書の内容を分析するアプローチの使用とその限界について留保(特に日本の教科書の多様性)がなされた。韓国では、パク・チョンヒ軍事独裁の下で最も強烈にナショナリズムに利用され、特に中国の貢献に関する記述の変化にそれが見られるとした。日本については、戦後すぐの記述では朝鮮への加害の視点がないが、その後の東アジア関係史発展の中で強調されるようになってきたと指摘した。ただし、戦争の終焉について朝鮮側の奮闘よりも秀吉の死を強調する傾向があることも指摘した(これについてはパク政権以前の韓国の教科書にも見られたという留保もなされた)。中国については、70年代までの政治状況から研究が難しいとしながらも、The Imjin Warの重要性とその際の中国の隣国に対する道徳性の強調については指摘できるとした。そして、日中韓3国共通歴史教材委員会 の『未来をひらく歴史』(報告者が参照したのは(‘東亞三國的近現代史’共同編寫委員會))という最近の成果に対する肯定的評価と、このような作業が国家同士の理解や連帯に貢献できるのかという問題提起によって、教育における語りについて述べてきたまとめとした。
 博物館については、国による正統な歴史を展示を通して示す場所としての特殊性の指摘とともに、National Imjin War Museumを具体例として展示内容を示した。日本については、名護屋城博物館を事例に分析がなされた。ここでは、当初の韓国側の憂慮に反して、日本側の正当化に資するような展示はなされていないとした。また、中国には特にこの戦争を扱った博物館はないとし、当面あり得そうにないとしながらも、歴史研究や教育的側面から建設への期待を示して博物館についての分析を締めくくった。
 映画やドラマに関しては、韓国のものがいくつか挙げられ、韓流ブームの最中にその中の一つを産経新聞の記者が批判的に論じたことが紹介された。日本では秀吉を扱ったものがたくさんあること、中国ではまだ無いが、映像化すれば成功しそうな小説があることなども合わせて紹介された。
 その後、歴史教育における日韓協力や日中に存在する少数民族としての朝鮮民族をThe Imjin Warのような国境をまたがった問題から考えたときにどう位置づけられるかなどの問題提起がなされたあと、これまでの報告のまとめがなされた。
 まとめとして報告者は、The Imjin Warを始めとする歴史問題は古くなればなるほど科学的な決着は難しいとし、感情レベルでの各国の納得が鍵であるとした。そして、新しい三カ国の関係の中で研究も一国単位で行われていてはならないという指摘とともに、The Imjin Warという悲劇的な出来事が将来の世代の連帯と相互理解に貢献する日が来ることへの期待が述べられて、報告は締めくくられた。

      

 

      

 

文責:河村 寛(本学法学研究科修士課程1年)